UBS日本ゴルフツアー選手権 宍戸ヒルズ

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選手、かく語りき  〜その弐〜 フランキー・ミノザ選手『14度目の賞金ランキングシード獲得』

フランキー・ミノザ選手
大会ピンバッジをつけて
プレーするミノザ

選手たちは、優勝を狙うのはもちろん、同時に来シーズンの出場資格を得る賞金ランキング上位70名を目指して戦っている。
シーズンが終了すると、シード選手の入れ替わりがある。初めてのシードの仲間入りをした選手、また残念ながら失った選手。そこには様々な人間模様が描かれる。

フランキー・ミノザ選手。今年の12月で47歳を迎えるフィリピンの英雄だ。
彼は1990年にダンロップオープンで優勝し、アジアンサーキット(現在のアジアンツアーの前身)の総合優勝者として、以来2001年までの12年間賞金ランキングシード(以下賞金シード)を守り続けていた。
2004,2005年と賞金シードを奪取することができなかったが、今季はQTランキング1位者として、シーズンを戦い、¥20,279,437 を稼ぎ賞金ランキング53位として、来シーズンの賞金シードを手中に収めた。
1973年ツアー制以後の外国人選手が賞金シードを獲得した回数(現行の賞金ランキングシード)は、デービッド・イシイ選手とフランキー・ミノザ選手が13回で並んでいたが、今シーズン、最多となる14回目の賞金シードを獲得することになった。

――2年間賞金シードを取れず、QTランキングからの出場になりましたが、今年は何が良かったのですか。
ミノザ『昨年は、出場できる試合が限られていたので、体のケアとフィジカルトレーニングをした。その甲斐あってか、背中の痛みが随分良くなったと思う。結果、いいショットを打つことができるようになってきた。』

――しかし、47歳で賞金シード復活。高いモチベーションがないとなかなか戦えないですよね。確か、45歳で競技生活にピリオドを打ちたいとも言っていましたね。
ミノザ『実は一度、ギブアップした頃があった。妻に相談したら「いいよ。じゃ2週間、ずっと自宅にいてみたら!」と言われたんだ。言うとおりにしてみたよ。でも何をしたらいいかもわからないし、何もすることがなかった。Nothing to doだよ。自分からゴルフを取ったら、何も残っていなかった。妻に教えてもらった気がする。僕はプロゴルファーだということを! ゴルフがあって自分がある。そう思うと、自分の体を鍛えなおす気持ちができた。』

――ここまでアジアンツアーで12試合とジャパンゴルフツアーで18試合の出場。合計すると30試合の出場になりました。がんばりましたね。
ミノザ『体もゴルフの調子も良かった頃は、予選落ちすると次の試合で取り返すため必死だった。しかし今は、起こったことに対して、それを受け入れる心があるんだ。予選落ちしてもミスショットしてもボギーになっても・・・欲がないと言えば嘘になるけど、今までの自分とは少し考え方が変わったかな。歳を取ったということかな(笑)。』

――アジアンツアーと日本ツアーのトーナメントの違いは?
ミノザ『それぞれ環境が違うのだから違いなんてあって当たり前。僕がいかにそれに対応できるかだと思う。違いがあっていいんだよ。どちらもいい雰囲気だし、これだけ長くプレーした日本は好きだよ。』

――UBS日本ゴルフツアー選手権 宍戸ヒルズは、どういう印象をお持ちですか?
ミノザ『今年からUBSというグローバルな企業がサポートしてくれているよね。アジアンツアーでもサポートしてくれている企業だよ。この大会はグッドトーナメントの一つだと思うよ。選手に対しても配慮をしてもらってるし、賞金も上がったし、勝てば複数年シード権やWGCにも出場できるトーナメント。選手が勝ちたいトーナメントと思える大会だと思うな。コースセッティングに関しては、コメントしないよ。僕は与えられた環境で成績を残すことが重要だからね。』

――これからの夢は何ですか。
『Just Play! 僕はゴルフトーナメントでプレーし続けたい。今は、それ以外はないよ。』

フランキー・ミノザ選手

ジャパンゴルフツアー(以下JGT)は、多くの若手が育ってきている。と、同時にそれは、何人かの選手がこの舞台を去っていくということ。彼も自分と同じ世代の人間が何人もトーナメントから去っていることを知っているし、彼に続いてJGTに参戦した外国人も母国のツアーに出場したり、または、ツアープロを引退している選手もいる。その中で、彼が奮起し体を鍛えなおしたことは、並大抵のことではない。フィリピンに家族を残し、単身赴任でビジネスホテルを宿泊地とし、いまもなお渡り歩いている。本当に頭が下がる思いである。

彼のプレースタイルは、とにかく顔の表情が変わらない。バーディやボギーを打ったとしても同じ表情、同じペースで淡々とプレーをしている。パッティングに関しては、既に90年代の後半から悩みが多かったようだが、それを消すことができる精度の高いアイアンショットを打つことができた。
しかし近年は、背中の痛みからショットにも精彩を欠いていたが、見事にカムバックしてきた。

冒頭にもお伝えしたが、彼は1990年のダンロップオープン(96年から01年まではキリンオープンとして開催)で優勝し、アジアの賞金王としてジャパンゴルフツアーに参戦を果たした。以来、T.ハミルトン、C.フランコ、B.ワッツ、崔 京周選手など数々の実力のある選手が、この資格で参戦し強くなっていった。しかし、アジアンツアーのどの選手に聞いても、フランキー・ミノザという選手は尊敬され目標とされている。
その裏づけの一つとして、01年まで開催されたキリンオープンでのことである。この大会はジャパンゴルフツアーとアジアンツアーの選手が半分ずつ出場できる国際色豊かな大会であった。ここで予選落ちしたアジアンツアー選手の数人は、ミノザの決勝ラウンドをギャラリーと同じ観戦エリアからついて歩いて勉強していた。
当時、彼らにこんな質問をしたことがある。「なぜ、わざわざ雨の日の決勝ラウンドにギャラリーと同じ様について行くの?」と。シンガポール出身のママット選手は、答えたものだ。『応援さ。でも本当の理由は、もっとうまくなりたい。僕たちの中でアジアのトップはミノザ。彼からいろんなことを勉強したいんだ!』と。

アジアと日本の架け橋的存在であるミノザ選手。
近年、プロスポーツ界において、日本からアメリカでプレーする選手が増えているが、当時のミノザ選手もアジアンツアーから日本に活躍の場を求めてやってきた。
「最初は不安だったよ。しかしサポートしてくれる人がいたからやってこれた。でも稼がないといけないのがこの世界だったから、本当に無我夢中だったな。」と、遠い目をした。
あと何年、彼のプレーを見ることができるかわからないが、彼の功績はすでに、母国フィリピンで高い評価を受けている。
いつか、引退の日はやって来るだろうがそのあとも、彼の日本でのサクセスストーリーは長く、母国フィリピンで語り継がれるはずだ。
しかし、いくつ勝利を重ねてもそうだったように、彼は奢ることなく、質素な生活を続けるのだろう。それがフランキー・ミノザという選手だ。

・・・14度目の賞金シード獲得、おめでとうございます。

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